老子39章 昔の一を得たる者
道の大原則は「道は一を生じる。一は二生じる。二は三を生じる。三は万物を生じる。」である。この一を得たるもののみがその生存をまっとうできる。
道が生じた一を得たるものは、例えば、天は清浄になり、地は安寧になり、神々は霊妙になり、谷は豊かに充満する。そして万物は産み増やし生存できる。諸侯や王たちは天下の長ともなれる。
根本たるこの一の存在を忘れてしまい、二たる相対的な世界や三たる立体の世界に目を奪われているとおそらくは崩壊するであろう。
天は清くなければ裂けるであろうし、大地は落ち着かせるものがなければ爆発したり、崩れるであろうし、神々は霊妙さを与えるものがなければその力は発散し尽きはててしまい、谷は満たしてくれるものがなければ干上がり枯れてしまうであろう。
私たち人間は、一たる命(宿命)存在を信じ、運命に従い、使命を果たすことが大切である。
自分の本性を知り、本来の自分をしっかりとつかみ、一たる絶対的な自分(例えば、私は人がいい、導引の先生として人助けのために人の良さを生かすのだ。私は美人だ、頭がいい、性格がいい等々なんでも結構です)に自信を持った生き方をすべきであり、それをしないと崩壊していくであろう。
例えば、私たちが二たる相対的な世界で、いつも他人との比較で自分の価値を決めていれば、優越感と劣等感との間で心身を疲労させていくことになる。
また、三たる神・気・精のエネルギーを、一を得ずに、正(一に止まる)しい使い方ができないで無目的で使えば、疲労し病を起こし自分の力を発揮することなく、一生を終わってしまう事になろう。
自分はこういう人間だ(宿命を知る)、自分の命をこのように運んでいくのだ(運命を知る)、そして自分の命をこのように使うのだ(使命を果たす)。
一たる命を大切にした者のみが自分の生命をまっとうでき、永遠の命を知ることができる。老子と導引に縁ある私たちは、それができる数少ない人間であろう。
老子56章 知る者は言わず、言うものは知らず
道を知り玄と同一となった者は道を語ることはしない。
なぜなら道は言葉で表現できない神秘の世界だからだ。
それゆえに、道を語る者はその神秘の世界を知らないといえる。
人は目、鼻、味覚、耳、皮膚感覚たる五感の誘惑を遠ざけ、門たる理性の働きを閉ざし、挫鋭解紛(鋭いひらめきを抑え凡人のように愚鈍になり、名誉・地位・財産などの紛争から心を開放する)、和光同塵(聡明を包み隠して外に輝かさない、世俗に同じで独り高しとしない)になって、初めて道を知ることができる。
だから道と一体化した人に対しては凡人が親しむことも、疎んずることも、利益で誘惑することも、脅し害することも、貴い地位につけることもできない。
それゆえに天下で最も貴い人なのである。
私は、和光同塵という言葉が好きだ。
その字の通りに解釈して、光と和合し塵と同一化する。
すなわち導引や洗脳服気をする時に、光を体の中に入れて和合させ、すべての細胞=塵が光と同一化することをあじわう。
これにより「細胞の中にある命が輝き出す」と信じている。
もともと私は、仙人になろうと思って導引を実践しているわけではない。
健康で楽しく人生を過ごすために行っている。
そうした低い目標であろうとも、老子の教えに沿って行っていれば、導引の素晴らしさが「私たちの肉体・魂魄・命をレベルアップしてくれて、自然に道と一体化できる」はずだと信じている。
少しでも道と一体化できれば、「私達の命が永遠の命に繋がる」はずと楽しみである。
老子48章 学を為せば日に益し、道を為せば日に損す。
この章は、儒家や法家など他の学派と道家が根本的に違うことをはっきりと教えている。他の学派は、学問を学び知識を深め、人間としての理想像を探求し・形成し、有能な人材になり、成功者になることを目指している。
しかし、道家は道を知り、道と一体になることが目的である。
そのためには自分の持っているものをどんどん放下して無になっていくことだ。
例えば導引をしてコリ、苦しみ、こだわり、など邪気をどんどん無くしていく。
さらに、老子を読み、差別の心、所有の欲、執着心(無差別・無所有 ・無我執)など人間の作り出した心を清算払拭していき、やがて全く偏見・我欲のない「無為自然、全ては一つ、我すなわち宇宙生命体=道なり」という悟りに達することである。
道=宇宙生命体はあらゆるものの創造主であり万能の能力を持っているから、この悟りに達することが出来た者は、自ずと万能になり、自由自在な生き方ができるようになっていく。
従って、そこまで高められた人間でなければ天下を取る資格はない。
老子が語っていることに間違いはないはずである。現世ではこのような立派な人間が天下を取ったという実例はないが、来世ではこの様な人物が天下を取り、天国を治めているだろう。
私たちはすばらしい人物が統治している天国に入るために、道を知り、道と一体となった自分を形成しておき「我は宇宙生命体なり=道そのものである」との自覚を持っておきたい。
それが現世における人間として最高の修行になり、輪廻転生する永遠の命のレベルアップになり、しかも、道を治めた人物が統治している天国に入る事ができるだろう。
これこそが導引を実践し、かつ、道を勉強している者たちの特典であると思う。
老子第37章 道は常に為す無くして、しかも為さざるは無し
老子は五千余語・81章からなるが、1章から37章までの上篇を道経、38章から81章までの下篇を徳経と呼んでいる。
その内容は、道と徳の意義を説いた書であり『老子道徳経』とも呼ばれている。
この37章は上篇として道を語る最後の章になる。
道とは、1番はじめに戻ること
道は=首とシンニュウ=からなっている。
すなわち、首が1番・はじめ、シンニュウは走る・其処へいく、という意味だから、
道とは=原点に戻る・1番はじめに戻る=ことになる。
1番初めにあったものは『宇宙の法則』である。
それを宗教の方では全能なる神と呼び、老子は道と呼んでいる。
その道とは宇宙の法則であるから常に何事もしない。
神、仏、人間や悪魔、餓鬼、畜生の意思や欲を意図的に達成してくれるものでなく、法則通りに動くだけである。
宇宙の1存在である人間は道=宇宙の法則によってのみ、生まれ・成長し・活動し・老いて・死滅していく存在。人間が宇宙の法則通りに存在するものである以上、道は何事もしてくれないけれど何もしないわけでもない。
この世のあらゆるものは道の顕れであり道がその存在を認めたもの。
道の法則に従うものは欲の少ない自然な生き方をできるが、道の法則に従わない不自然な生き方をしているものに対しては、名付けられない樸の重みで抑制すべきである。
道を体得した為政者であれば樸の重みで自ずと天下は収まるであろう。
その、名付けられない樸はやはり欲望のない状態をもたらすからであり、欲望を断って静かならば天下は自然に安らかになるからだ。
しかし、現実の政治がこのような無為自然の行いで治まるとはとても考えにくいし、このような国家があったという歴史を私は知らない。
しかし、老子の道の教えは宇宙の法則・真理を語っているから、私の知らない真理が必ずその中に隠されているものと信じている。
将来的には、人間が成長しこのような素晴らしい国が誕生するのかもしれない。
現状では、これを国家論としてでなくて個人の人間性の向上としてとらえ、名付けられない樸の重みで抑制すべきであるということは『自然体で生きる』ということだろう。
老子を読んで自然体で生きるということが、道と共にあるということである。
よき兵器は不祥の器なり
優れた武器は不吉な道具である。
だから道を得た人は、優れた武器を使うことを好まない。
どうしても用いなければならないときは、恬淡であるべきだ。
武器を使って勝利を得ても栄光ではない。
それにもかかわらず栄光とするのは、人殺しを快楽とすることと同じである。
人殺しを快楽とするような人は、天下において望みを果たすことができない。
一般的に、おめでたい行事のときは左を上席とし、不吉な行事の場合には右を上席とする。貴人たちがふだんの生活では左を上席とするが、戦いにはいれば右を上席としている。(昔の日本の政治でも左大臣が上席で右大臣がその次である)
しかし、軍隊では、大将は右に位置し、副将は左に位置している。
ということは、葬式の礼法に従っていることである。
戦争に勝つこと、すなわち殺した人の数がおびただしければ、深い悲しみをもってすすり泣くべきで、戦いに勝つものは葬式の礼法に従うべきなのである。
老子の根本的な考え方に、"不争"がある。
従って、この章は戦争を悲しむべき行為であるとしております。
導引を実践し、老子を勉強することで、自然に"不争"すなわちあらゆる面で争いごとが少なくなっている。
しかも殺生を避け、命の輪廻に気づき、人間が自然界に生かされているということにも気づいてきている。
それが知識としてでなく道理(当たり前のこと)として理解できている。
この成果を理解し、喜び、導引・老子に縁があったことを感謝したい。
老子第29章 天下は神器なり
この世のすべては宇宙、太陽、地球、月、動植物、鉱物、気候など森羅万象ことごとく道(宇宙法則)の顕れです。
天下、国家もまた道の顕れであり、その器の大きさからいって神の領域といえます。
たとえどんなに優れている国王、大統領、首相であろうとも、ひとりの人間の考え方、感情、行動力で治めきれるものではありません。
私は天下を自分の思い通りにしようとした人たちが、心身ともに休む暇がなく、不安と焦燥にさいなまれているのを知っている。天下は神聖な器であり、ひとりの人間がどうにもしようがないものだ。なんとかしようとするものはそれに損害を与え、それに固執するものはそれを失ってしまう。
“万物は陰陽からなり”
先を急ぐものもがあれば後からゆっくりついていくものもある。
緩やかな息遣いをするものもあれば、激しく息づく者もいる。
あるものは強壮であるが、あるものはひ弱い。
権力者がいれば徳のある人もいる。
富貴の人もいれば貧乏人もいる。
スポーツの上手な人もいれば下手な人もいる。
すべての人たちに公平な政治などはあり得ないのが現実である。従って、心ある為政者は過度の行いを避けて中庸を守り、浪費を避けて慎ましく暮らし、傲慢になることを避け謙虚に生きる。
老子第32章 道は常にして名なし
道とは何か?
それは永遠不滅ものであり、名前もなければ姿、形もない。
それは宇宙誕生の法則であり、万物の生成、発展、成熟、消滅の法則でもある。
そして、その姿を自然界に表しているので、具体的に知るには、自然界の動きを見ること。それが”道法自然”である。
例えて言うならば、道とは白木のままで加工されていない荒木である。
荒木は仏像にもなり薪にもなる。
はじめは、仏像であるとか薪であるとかいう固有名詞はないが、1度その名をつけたらそのままの姿をまっとうすべきである。
仏像が薪になっては意味がない。
薪から仏像を作ることも恐れ多いことである。
人間も同じだ。
赤ん坊や子供のころはいろいろな可能性があり、職業的な名称はついていない。
しかしながら1度その名を得たら、その職業の範囲内で活躍すべきであり、その職業を超えた言動をすれば災いのもとになる。
道を得て天下に名をなさんと欲する人であれば、”上善は水の如し”水の流れのごとくすべきである。
湧き水がせせらぎとなり、谷となり、川となり、大河となり大海に注ぐようなものである。小さな流れの時は清流であるが大河となれば汚れる。大河は清濁合わせ飲んでいる。天下を治めるためには、まさに清濁合わせ飲む度量が必要であるからだ。
道を得て天下を治めることができれば、天地は合体し甘い露を降らせるであろう。
だれも命令しなくても人民は和合するであろう。
人間の成長も同じといえる。
人間的な成長とは、清濁併せ飲む度量を大きくすることである。それができたとき、天の気と地の気が和合し甘露(甘い唾液)がわいてきて、健康にもなれる。
明察の人となり他人の立場にたったものの考え方ができるようになる。
自分の徳分を知り、分を超えない言動がとれるようになり、災いに会わなくなる。
老子を読み導引を実践することで、少しずつ人間的に成長していきたいものだ。